無性に死にたくなるし、無性にメンタルがぐらぐらする。月に一度の血祭りDAYは終わったばかりでホルモンバランスは悪くないはず。きっと職場で大掃除をしてたくさんの埃を吸って体調が悪くなっているせいだろう。いつも私はハウスダストアレルギーで鼻水やくしゃみが止まらなくなり、熱っぽくなりフラフラする。そしてそれに伴い、無事メンタルもおかしくなる。
平沢のというかP-MODELのboatをでかいテレビで流しながら、まともな服も着ずにアイスの棒を咥えながらパートナーにもらったMacBookでこの記事をかたかた打ち込んでいる。
宿直業務をこなして一日空けていた家に帰ってくると、水槽の中にいつもいる大きな紅がいなかった。ゴミ箱を探しても見つからず、もう埋められてしまったかなと、ふとリビングの机に目をやると、可愛がっていた私のかわいいかわいい大きな金魚が皿の上に乗せられていた。ご丁寧にもキッチンペーパーが敷かれた上に、私のおもちちゃんとこの間の祇園祭ですくってきた金魚2匹。煮干しのような匂いでそこまで不快ではないが、干からびている。そっと表面を撫でてみるがかさかさしていて、指の表面から微かにでこぼこした感触が感じ取れるだけだった。人は濁った目のことを死んだ魚のような目と表現するが、私の愛した金魚の目はちっとも濁っておらず、透き通っていてこちらを見ている。生きている時よりもずっと私のことを見つめている。
たかが、金魚。500円で釣ってきた10センチほどの赤と白の混ざり合った模様が美しかった金魚。たかが金魚。このたかが金魚のためにパートナーが車を出してくれて大きな水槽を買ってくれて遠出して水草も買いに行き、可愛がっていた。
なんとなく弱っていたのかもしれないと思っていたが、まさか私が家を空けている間にいなくなるとは思っていなかった。宿直から帰ってきたら水換えをしようかなと思っていた。3日前に水換えをしたからある程度は大丈夫だろうと思っていたが、甘かった。
去年よりはずっとしんどくない。仕事に行きたくないと夜中に泣いたり、ミスしたことをずっと反芻したり、お酒を飲まないと眠れない日々ではない。生きるか死ぬかの瀬戸際ではない。それでもしんどいものはしんどい。
私は選択が嫌いだ。自分で何かを選び取るのが苦手だ。選択権のない人生を生きてきた人間はレールの上で大人しくトロッコに乗っている。たまにレバーがあって左右どちらに進むかを決めるだけ。社会人になってパートナーと付き合って、同棲して、初めてトロッコから降りて自分の足でいろんな場所を歩き始めた。ものすごく苦痛で恐ろしくて精神に負荷がかかった。もう一度カウンセリングも受けた。とにかく自分を整理したくて、ほんの少しのひとり旅に出たりもした。まだまだ変化は嫌いだ。パートナーの就職先についていくか、転職するか、出産はいつするのかどこでするのか、そもそも私に子供を育てられるのか。
子供と対面する時、自分に余裕がなく、子供が反抗的な態度やわざと私を怒らせようとする際、私の中に「暴力」というコマンドがカッと差し込まれる。しかも必ず、私よりも小さい幼い子供に対して。だから私は怖いのだ。いつかの親のように暴力で己の子供を支配しようとする。絶対にする。今私がそれを行なっていないのは、周りの目があり、目の前の子どもと血が繋がっていないからであり、社会的な立場があるからだ。
パートナーには何度も話している。いつか私は子供を殺す親になると。パートナーは笑ってそんなことならないと思うけどなぁと言ってくれるが、彼は私の内側の暴力性を知らない。
自分が虐げられたからこそ、受けた傷を私は誰にそのまま同じように返せばいい?傷を傷のままにして、私は殴られっぱなし?振り上げた拳はどこに下ろせばいい?
そういうことを私は考えてしまう。仏にも聖母にもなれない。
でも、きっと殴ってしまえば私は死ぬほど後悔して、罪悪感に駆られて自分を呪うだろう。そういうチンケな自分がいることが酷く悔しい。暴力というコマンドが浮かび上がることなどない人間でもなく、殴ることを躊躇しない人間でもない。どっちつかずの人間。最悪だ。
どうか、私をいい人間にしてください。